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倉本聰さん「香りということ」

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年中鼻をつまらせているくせに、匂いについては敏感である。
仕事をする時僕は書斎に常にお香を絶やさないのだが、香のかおりはペンや紙と同様、思考や創意を生み出す為の脳内の必須アイテムとなっている。
仕事に疲れ筆を休めて窓のカーテンを開け外を見る。僕の仕事部屋は山腹にひろがる森の中にあり、常に木の香に包まれているのだが、時折その森が濃厚な霧に一面覆はれていることがある。霧は乳白の重い粒子で、10メートル先の木の幹すら見えない。その霧の中に出てたたずんでいると心の奥底までしっとりと潤んでくる。
一切の音が聞こえない。
透明な沈黙の世界である。
十数年前、ふとその霧の中でかすかに匂ってくる香りを感じてハッとした。
川の匂いである。川原にいるときふっと感じる流れが発するあの匂いである。その匂いを感じたのは初めてである。いつもはもっと無機質な、鉱物的というかそんな匂いがする。
ところがこの日に限って微かに動物的・植物的な、川の匂いに近いものを感じたのである。それからも何度かそういうことがあった。
何年か経ってその謎が解けた。
僕の住む森は山腹にあるから、しばしば霧に覆われる。ところがその白い気体の正体に二種類のものがあることに気づいたのである。
一つは山裾にそって下りてくる雲である。雲の中に森ごと閉ざされている。今一つは気温の急変によって町を流れる空知川から大量に立ち昇るけあらし(※)である。それが早朝や夕刻、じわじわと町を覆い、この山腹まで這い上がってくる。二つの霧は見た目には同じなのだが嗅覚をすますとそのちがいが判る。そのことに気づいたときに変に感動した。

情報社会といはれるものの情報は、視覚と聴覚から殆どが入ってくる。その為か、味はともかくとして嗅触という五感の中の大事な二つが、どうも置き去りにされているように感じる。しかし僕の中で遠い記憶に結びつくものは常に匂いを伴っている気がする。ある時それは母が年中着物に焚きこめていた香の香りの断片であったり、父がその昔漂はせていた土くさい焚火の匂いであったりする。

※ けあらし 北海道の冬にみられる気象現象。漢字では「気嵐」と表記する。厳寒の朝、海や川などに立ち上っている水蒸気が、陸から流れ込んだ空気によって冷やされ、霧となる現象。気象用語では「蒸気霧」と呼ぶ。

今やっている富良野自然塾に、環境教育の一環として作った「闇の教室」という施設がある。
暗黒の地下に春夏秋冬、四つの部屋を作り、音と香りと気温の変化の中で真暗闇の中を歩くという施設である。さてこの部屋を作るに当り、一年余りの時間をかけて最も力と神経をかけたのが夫々(それぞれ)の季節の匂いである。
春は森の中。
夏は海浜。
秋は落葉の森と枯草の原野。
そして冬は氷に閉ざされた雪の岩肌。
秋は比較的簡単に出来た。冬は冷気と凍るような風。氷に覆われた滑る急斜面、錆びた鉄鎖にぶら下りながらその急斜面をトラバース(※)する仕組みでそれなりの厳冬期の臨場感が出せた。意外にも最も苦労したのが、春の森に匂うフキノトウの香りと、夏の海浜の匂いである。
香料研究所に依頼してフキノトウの匂いを漂わせようとしたのだが、何度実験してもこれが仲々うまくいかない。
化学者たちはまず本物のフキノトウから匂い成分を抽出し、その化学式に基づいて同じ匂いを再生しようとしたのだが、これが予想外の難事業だった。化学式的にはフキノトウの匂いの筈なのだが、どこか本物のフキノトウとはちがう。試行錯誤をくり返した。
それ以上に苦労したのが、夏の海浜の匂いだった。
最初はごく単純に、潮の香り、オゾンの匂い、灼けた砂の匂い、等々を考えていたのだが、それらをミックスしてみても一向にあの海辺の匂いが出て来ない。海には魚介の匂いがあり、それらの死臭も漂っている筈だ。いや海藻の匂いもあると、魚を腐らせたり、貝を焼いてみたり、コンブを日干しして湯をかけてみたり、揚句の果てには知床羅臼の知己にたのんで古い漁網やら漁箱やらを送ってもらったり涙ぐましい喜劇的努力で一年有余を費やす破目となった。

僕らは常に匂いに包まれて暮らしている。
だがこの視聴覚偏重の情報社会にあっては、あたりまえの情報があたりまえすぎてとかく忘れられてしまいがちである。たとえば呼吸。
息を吸うことで酸素をとり入れなければ我々は5分と生きていられず、1分間に十数回息を吸ったり吐いたりしているのに殆どの人がそのことを忘れている。
ましてやその度に我々は周囲の香りというものを感知している筈なのにそれを意識するものは殆どいない。それが我々の日々の暮らしをどれほど豊かに潤しているか、それも完全に忘却している。
これは明らかな人類の退化である。

※ トラバース 横断、渡るの意。横切ること。

富良野自然塾の様子

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